2020/07/20
優しかったO先輩
私の店ではコースのデザートに必ずプリンをお出しします、プリンを焼くと優しかったO先輩の顔が瞼に浮かびます。
調理場の先輩達は4名21歳から23歳で皆16歳からのコック修行で5年以上の経験がある、私は19歳の5月にコック見習いになり先輩達は神様のような存在でした。O先輩は22歳声が鶴田浩二に似ているのが自慢でした、賭け事が好きで定休日の日曜日には競馬場に行くようです。
先輩達は皆遊びに行き私は一人睦クラブの調理場で包丁使いの練習です、山奥育ちの無学なターザン(野蛮人)はフランス語の料理用語も解らないので猛勉強の日々でした。定休日の食事は自分で用意する、恩師から食材の残り物で作れと命令された。賄い食は料理の勉強になると恩師に教えられ、料理本を見ながらフランス料理を作って食べました。
その日の休日はのO先輩が睦クラブにいて昼ご飯は用意して頂いた、O先輩は和食も得意でさすがに美味しいなあーと思いました。食後洋次君(私)はプリンが好きかと問われました、私が食べた事がありませんと答えると作ってやるから待てよと笑った。プリンは感動するほど美味しかった、先輩は微笑みながらプリンは本来温かいデザートだが冷しても美味しいよと教えてくれました。
休日になる度に先輩はプリンを作ってくれました、私は手帳に分量や焼く時間オーブンの温度をメモした。それを見てO先輩が俺はプリン作りに飽きた食べたい時は自分で作れよと笑った、私は有難うございましたと礼をしました。
悲しい別れ
O先輩は少し怠け者でした、朝寝坊が多く遅刻して恩師に叱られるので私は毎朝必死に起こしました、O先輩の故郷は東京で正月休みには帰りますが遅れて來ることも度々である。今回も仕事初めに連絡も無く休んでいる、大切な儀式のパーテイを控え皆イライラしていた。
私は心配だった、遅れて来たO先輩に恩師のビンタが容赦なく数回飛んだ、O先輩は逃げ出してバス停に立っていました。かまうなと恩師の怒鳴り声がしたが私はO先輩を迎えに行った、俺が悪いのさ洋次君は頑張れよと涙を浮かべバスに乗った。
私も涙を浮かべお元気でと別れを告げました、風の便りに東京のホテルで料理長をしていると聞きました。鶴田浩二に似た声で、優しい笑顔で仕事をしているのだろうなあー。。。
O先輩に教わったプリンは毎日作っていますよ、舌に残る優しい想い出を頂き、感謝しています有難うございました。