料理人になつたターザン  母の命日に想う  相生の野犬達  侠客達

コロナウイルス自粛の影響を受け暇な日が多い、悩んでも仕方が無いだろう、あらゆる努力をし人事を尽くして天命を待つの心境でございます,

妻にはきっと現状は回復する暇な日は身体の休養をしようと言った、私達もコロナウイルスにかからぬよう万全を期し頑張り続けたいと思います。

暇な日は黙々とトレーニングに没頭、もう高齢だから無理をするなの声も多いが高齢だから必要、80歳からでも筋肉は発達するそうですよ。

還暦前まではベンチプレスで150キロを数回挙げたが、慣れない農作業で腱板を傷め暫くベンチプレスが不可能な日々があり辛かったですね。

トレーニングを行うと激痛や夜間痛があり肩腱板断裂かと思いました、頼りの名医元加木屋リハビリ整形の岩田院長は辞められて居ない、以前岩田院長に指導されたストレッチを実行すると徐々に腱板痛が回復して軽い重量のトレーニングが可能になりました。

昨年の秋にスズメ蜂に右上腕を刺され不思議にも腱板痛が治りました、60キロまで落ちていたベンチプレスは現在120キロまで回復しました。

高齢でもあるし130キロまで回復すると嬉しい、70歳近い年齢を考えれば私は線香花火かも知れない、線香花火は散る間際にひときわ大きい火花を散らし消えます、親友だった先輩は42歳、恩師は48歳で他界した、未熟児で早死にするだろうと言われた私が不思議にもまだ生きています。

私は10月が誕生日だが出産予定日は12月だったと教えられた、台風の暴風で母が転び小さな未熟児で産まれたと祖母に聞きました。

医学の進歩した現在ならともかく、当時未熟児は産婆が死産にした例が多いらしい、母も病院の無い山奥での生存は無理だと諭されたらしい。

母はきっと育てて見せますと死産を断ったらしい、幾度となく死にかけ母の苦労は並大抵では無かったと祖母から聞いたが祖母も必死だったと母は語った。

毎朝の味噌汁には骨を丈夫にする為に大きな煮干しが入りそのまま食べた、小児喘息を治すために祖母に蛞蝓を飲まされたのは辛かった。笑。

母は様々な野菜を作り料理してくれた、鯨肉と青菜の炒め煮、大豆煮、大根とイカの煮込み他、山芋のとろろは麦飯にかけて食べ大盛だった。

小学3年までは病弱で日々虐められ泣き虫とからかわれた、父の仕事の都合で転校が多かった事情もあり傷だらけで泣いて帰る私に母は言った。

泣いたら負けだよ、泣くと面白いから虐められるのよ戦いなさい、松茸取りの帰り山中で大きな猪が出て泣く私を庇い母は猪を睨みなさいと励ました。

母は山菜取りの名人で私を連れて山野を駆け回り私は必死で後を追った、様々な山菜の下ごしらえを手伝い山菜料理も好きでした。

病弱な私は常に母と一緒でした、料理を見たり手伝うのが好きで色々な野菜の栽培方も教わった、何となく料理人になったが母の影響かも知れませんね。

4年生位から元気になり、ターザンに憧れ勉強嫌いになり険しい熊野の大自然を駆け回った、そんな私を母は注意もせず優しく見守ってくれました。

中学時代に見た父の雄姿は強烈な体験だった、単身無法者達と死闘し村人を救った事件を知るものは私だけだろう、父に勝つのが私の目標になりました。

紀州虎の異名を持つ父は憧れであり強くなりたいと思った、20歳代の私は父に反抗するようになったが父は弱い奴ほど吠えると笑い子供を相手にしなかった。

酔って父に絡む私の頬に母のビンタが飛んだ、黙っているが父さんはお前の事ばかり心配している、お前が大怪我で入院した事件を聞き毎日心配していたと涙を浮かべ諭された、父に謝ると俺は優しい男では無いよと照れていました、里帰りして父と酒を飲むのが楽しみだった、もちろん母の料理も楽しみで美味しいよと食べるとコックさんに褒められて嬉しいと喜んでいました。

私が20歳、先輩は21歳の7月に石川島播磨名古屋造船所内外国人接待施設睦クラブ(モンターニュー)の仕事で新造船の回航に乗り外人食を担当した、新造船はテスト航海を終え相生の石川島播磨造船所のドックに入り船底の塗装で5日間停泊の予定でした。

停泊中は外人食が無く夜は飲みに出るのが楽しみだった、瀬戸内海に近い相生市は人情味があり好きだった、馴染みの中華料理店に寄った後寿司屋で飲んだがまさか悪夢が待っているとは想像もしなかった。

悪夢は兵庫県相生市の寿司屋を出た直後の出来事、原因は不明だが泥酔した先輩と数人の無法者が喧嘩になり先輩がいきなり鉄パイプで顔面を殴打され驚いた、寿司屋は初めて来店したが無法者達は馴染み客のように見えた、退院後寿司屋に彼らの正体を尋問したが知らないと惚けた。

血塗れで倒された先輩を救い壮絶な修羅場になった、喧嘩馴れした数人相手に深夜の死闘、人影も無く当時は携帯電話も無く警察を呼べない、恐怖感は消え相手を倒す闘争心のみ、中学時代に見た無法者達から村を救った紀州虎の雄姿と修羅場が蘇り私も修羅と化した。

角材や鉄パイプが容赦なく顔面に襲いかかる、土下座すれば許してやるぜ頭目らしき男が残忍な笑みを浮かべた、謝って許してくれるような輩達では無く最後まで戦う覚悟を決めた。

失神した血塗れの先輩に笑いながら頭を蹴り込む狂暴な輩達である、死ぬ覚悟を決意すると不思議に殴打された痛みは快感に変わった、暴れまわる私の足を折れと怒声が聞こえ足に強烈な衝撃を感じ無念にも倒された、私が殴った数人が鬼の形相で鉄パイプを振り下ろす、何故か母の顔が浮び母さんごめんねと涙が出た。

殺される直前パトカーのサイレンが聞こえ無法者達は去った、私は用水路跡に転げ落ち気を失なったようだ、薄暗い早朝に野犬の唸り声で起こされた、血の匂いを嗅ぎつけ野犬達が来たのだ野犬に襲われるのも悪夢だと思った。

必死の思いで用水路跡から出ると狼のような野犬の群れに囲まれた一難去って又一難、満身創痍で全身激痛の私には戦う気力が無かった、少年期に猪を睨みなさいと励まされた母の言葉を想い出し噛みつくように野犬達を睨んだ、しかし野犬達に殺意は感じず私を心配して見守っているような優しい気配だ、熊野の大自然で育ち山の動物達を愛したターザンには彼らの優しさが理解出来ました。

野犬達に起こされなければ大怪我で失神していた私は発見されず死んだかも知れない、豪雨の多い季節であり用水路跡はあっという間に濁流になり死体は流されるだろう野犬達は命の恩犬だと感謝しました。

野犬の遠吠えを石川島播磨相生造船所に停泊する船から聞いた、狼のような遠吠えを住民に尋ねたら相生造船所は以前日本海軍の基地であり敗戦後は米軍が相生市に駐留したそうだ。

恩犬達は駐留軍が飼育していた軍用犬の子孫達らしく彼らが帰るとき捨てたのだろう、現在であればインターネットで哀れな野犬達の保護を日本中にお願いできる、私は見捨てられた野犬達に罪は無いと思う、老犬のマルチーズを抱きいつしか消えた遠吠えを偲べば切なく残念に想う。

草木に覆われた用水路に落ちた私は夜間でもあり警察に発見されなかった、先輩は保護され脳検査の結果異常は無かったとの報告に安心しました、私は全治3ヵ月以上の重傷で入院しましたが男としては悔いはありません。

病院は南区柴田町に近い事もあり病院には仁侠の徒も居た、私は階段から落ちたと説明したが変形した顔、全身打撲、手足の骨折、プロ達には嘘は通用しなく真実を話しました。

皆私の行動を褒めて可愛がって頂いた、逃げなかったのは感心だ、義理人情は大切だぞ、皆仁侠映画の高倉健、鶴田浩二のような侠客達だった、2ヵ月以上の入院生活はあっという間に過ぎクリスマスにはローストチキンを差し入れするよと約束しました。

彼らを賛美するつもりは無いが相生の無法者達とは違うと思った、クリスマスにローストチキンとワイン、酒を隠し持って病室に行きパーテイだ、侠客達は感激して喜んでくれました、皆純粋で良き男達ばかりでしたよ。

当時は現在のように病院の規律は厳しく無かった、しかし病室で酒を飲むのは絶対に許されない、馬鹿な私は厳しく叱られたが楽しいクリスマスでありました。

二度と無茶はするな命は大切にしろよ、約束は出来ないがお前が店を持つまで俺の命が在れば食べに行くよと寂しく笑った、昭和40年代は抗争事件が多く明日の運命はわからないのだろう、私は頑張りますと答えて別れました。

先輩は恩師の弟で10歳年上の恩師は睦クラブの料理長、男気があり喧嘩の強い恩師は俺が一緒なら勝てたと笑い、病院でゆっくり寝てこいと慰めて頂きました、4月は先輩が他界した月で生涯唯一の親友だった先輩との想い出は多くヤンチャなエピソードも懐かしく又悲しい月であります。

寒くなると時々痛む骨折の痕や変形した鼻は男の勲章である、殴られるまではもう少し顔が良かったと妻に話すと笑われました。。笑

30歳過ぎまでの私は無鉄砲で思慮浅く幾度もの修羅場を体験した、母に頂いた大切な命を粗末に扱い後悔と反省の念が尽きない馬鹿者です。

母が作るさんま寿司が大好きでした、和歌山県新宮市ではさんま寿司が名物だが実家ではおせち料理にさんま寿司を仕込みました。

それぞれ家庭の味があるが母のさんま寿司が最高に美味しかった、母の味を忘れない為に、母の恩を忘れない為に、母が他界してからさんま寿司を食べていません、何時か天国で母に逢い作って頂くのが楽しみでございます。

64歳で他界した母の享年を超えました、天国で逢うと老けたねー洋次(私の名前)と微笑むでしょう、母さんは若いねと私も微笑むでしょうね。

愛知県の山々や桜を眺めると、天国の母を想い灌漑深い、現在まで病気無く元気である事を感謝します、今日本は大変な危機で私達夫婦も不安な日々です、お客様達の温かい励ましに感謝し恩義に報いるべき懸命に頑張っております。 

                  泣いたら負けだよと母さんに励まして頂いた幼なかったあの頃を想い出しながら。

     熊野山  偲ぶ桜よ  母の声     母の命日は3月30日、山桜が満開でした。

 

 

 

 

 

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