3月30日は母の命日、 初めての料理(母待てる 故郷遠き 炬燵かな)

母が入院した

私が小学5年の5月母が入院しました、以前より腹が痛いと言っていたが、田舎であり近くに病院は無く我慢していたらしい。突然倒れ救急車で新宮市の病院に運ばれた、症状は酷く手遅れかも知れないと言われたがすぐ手術して助かった。

父は山奥の仕事場で知らせを受け、材木を運ぶ野猿に乗り山から飛んで帰った、歩くと家まで数時間は掛かる山道である。野猿で材木の上に乗り、100メートル以上の高さを猛スピードで村の木場まで約30分で着いた、まるで猛虎のような父だった。

私は次男ですが訳あって兄は本宮町の祖父母と暮らしている、私は弟や幼い妹と一緒に熊野川町で両親と暮らしていた。
1ヶ月以上の入院になると父から聞いた、俺は山の仕事場に戻る働かないと。。お前は家のことを頼むと真剣な顔で私に言った。

初めてご飯を炊いたが。。

朝早く起き朝飯と弁当を作る、当時炊飯器が無かったので薪でご飯を炊いた、ご飯は固いか、お粥のようにしか炊けなかった。そのうちコツが判り何とかご飯らしくなったが、おかずを作るのも大変だ、弟や幼い妹が我慢して食べているのが哀れに思う。

田舎であり昭和35年当時は自給自足の生活だった、現在ならばコンビニやスーパーがあり、食事の準備に困ることは無いだろう。今夜は油と小麦粉があるので天麩羅を作ろうと思った、茄とさつま芋の天麩羅にしよう、卵は家で鶏を飼っていたので有る。

料理を見るのが好きだった、母の天麩羅を思い出し茄とさつま芋を切り揚げた、初めて作った天麩羅はさつま芋が半生でした。天麩羅に慣れたので、谷川で子鮎や川海老を取り天麩羅で食べた、我ながら美味しいと思った、弟や妹も喜んで食べていた。

幼い妹や弟は毎夜泣いている、無理も無い辛いだろう、私は泣いている暇は無い、早く寝て明日も弁当を作らなければ。。。朝早く食事の用意、山仕事をやり暇を見て畑で野菜をつくり、夜遅くまで裁縫している母の有難味が少しわかりました。

母が無事退院しました

母が退院しました、弟と妹は母に飛びつき喜んでいる、母は私を抱きしめ、洋次、頑張ったね、有難うと涙を流した、私も泣いた。猛虎のような父も涙顔だ、良かったねー洋次、、寡黙な父が微笑んだ、その夜久しぶりに父は美味しい酒を少し多く飲みました。

暫く母は無理ができない、風呂焚きや薪割り、畑の手伝いほか、自分のことは自分で、妹や弟も我が儘を言わないのが可愛い。私は19歳まで父と山仕事をやり、名古屋に出てコック見習いになった、1年後の正月休みに夜行列車で故郷に帰りました。

暖かい炬燵

母は堀炬燵に炭を入れて待っていた、暖かい炬燵と私の大好きなさんま寿司や、餡子餅を用意してお帰りと迎えてくれました。初めて母に作った料理はプーレソーテマレンゴでした、覚えたての鶏肉のトマトソース煮込み、母は美味しいと食べてくれた。

料理を作る私に辛抱したねーコックさんの修行は大変だろう。。恩師も先輩達も良い人で楽しいから何でも無いよと笑った。40年当時の修行は厳しい、怒鳴られビンタは当たり前、教える方も教わるのも必死だ、絶対服従の世界だが愛情があると思った。

涙の1万円札

帰りの切符代しか持って無かったのに、洋服のポケットに1万円札があった、母さん有難う、必ず一人前になりますと心に誓いました。母は料理が得意だ、色々な家庭料理をいただき、美味しいなあーと食べると、母はコックさんに褒められて嬉しいと微笑んでいました。

3月30日64歳で急死、別れの棺に自作の俳句を添えました、 母待てる 故郷遠き 炬燵かな。涙は止まりませんでした。現在は母より年上になりました、あの世で逢うと歳とったねー笑われるかも。。しばらく墓参りしていませんねごめんなさい。

長年母の墓を守った父も4年前他界しました、故郷は遠きにありて思うもの、いつかゆっくり故郷に帰りたいと思います。

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