十津川村の冬鮎
奈良県十津川村上野地谷瀬の大吊橋は有名、高さ50メートル長さ300メートルの大吊橋は壮大で十津川狭の名所であります。初めて大吊橋を渡った人々は恐怖で足が竦むが、地元の住民は狭い橋桁を自転車で走る。橋の下を流れる十津川には色々な川魚が生息するが中でも天然鮎は鯖のように大きい、川下に風屋ダムがあり天然鮎は川を下れず湖水で冬を越すのだろう。
上野地の川淵には冬でも鮎らしき姿が見えた、熊野の大自然で育った私は動態視力が良く淵に太った無数の鮎を確認し潜って取ろうと決意を決めた。十津川村の冬は寒い吹雪が舞い流れの緩い湖水には氷が張っていた、当時はウエットスーツなど無い時代である連れに焚火をさせたが連れはコートを羽織り震えている。
私は裸になり水中眼鏡を装備し鮎の引っ掛け道具を持ち川に入った、氷を割りながら入ると体が膠着し心臓が止まると感じたが死ななかった。暫くすると動けるようになり淵に潜ると無数の鮎の群れを見つけた、冬の鮎は動作が鈍い面白いように取れ寒さを忘れた。
川から出て焚火に当たると体が赤く火照り、ヒリヒリしたが冷たい吹雪が心良かった、連れは寒さに凍えて死にそうだと泣き顔だった。海で寒中水泳の経験があるが比べものにならない冷たさだった、俺は不死身だと自惚れた馬鹿な16歳の冬でした。鮎を焼いて食べたが不味かった、鮎はやはり夏場が美味しいと思ったターザン(野蛮人)でありました。
不良時代
当時私は新宮市のバス会社で車掌をしていた、新宮駅前6時発の五条橋本行特急バスに乗車、上野地駅着10時で乗務員は交代バスは五条橋本に向かう。運転手と会社契約の宿屋2階に泊まり、橋本駅発の新宮行特急バスの乗務員と交代する明日の10時までは自由時間でした。昼食は弁当だが2階に調理場があり夕食、朝食は自炊である、熊野の大自然で育った私は夏は鮎や山女魚を取り、春は山菜採り、秋は茸採り、冬は野鳥猟食材確保の役目で運転手達に重宝されました。運転手達は、元ダンプカーやトラックの運転手が多く皆荒っぽいが気は優しかった。
当時新宮五条橋本間の道路は狭く、道路の譲り合いでダンプカーやトラックと揉め、バスから降りて喧嘩になる事件もあり車掌は大変だった。喧嘩の強い運転手の場合は別だが、弱い運転手だと車掌が殴られ現在では予想もしない出来事も体験した。1940年当時青春映画では高校生達がスポーツを楽しむシーンが多かった、裕福な家庭に生まれ進学しスポーツを楽しめる彼らは幸福である。
新宮、勝浦間の夜間便には禁煙のバス内でわざと喫煙する不良達が多かった、関わり合いになると名前と営業所を聞かれ悲惨な結果が待っている。車掌達は無視したが運転手に叱られて仕方なく注意をする、会社の前で待ち伏せし殴られ恐喝される事件も度々あった。
山奥奥育ちのターザン(野蛮人)が16歳で酒、煙草を覚え不良達相手に喧嘩三昧の日々やがて小さな町で顔が売れた、肩で風切り深夜の街を闊歩このままでは暴力団の仲間入りだ。将来に不安を覚えバス会社を辞め父母と山仕事をした、寝不足や酒、煙草で鈍った身体に、過酷な山仕事は骨が痛むほど厳しかったが何故か爽やかな気分になった。
寡黙な父は何も言わず黙々と働くその巨大な背中には黙って俺の言うことを聞け、沈黙の威圧感があり歯を食いしばり日が暮れるまでの肉体労働に耐えた。やがて山仕事に慣れ父母と山で食べる塩辛い干物と梅干入りの大盛弁当が堪らなく美味かった、私はこのまま山仕事を継続する決意を決めました。
冬の鮎取り
1月半ばその日は大雪が降り凄く寒い日だった、雪は異常に積もり仕事を止めて帰る事にした、密林沿いの谷川淵を見ると黒い魚の群れがあったそれは鮎のようである。以前十津川村上野地で冬鮎を取った経験があるが、故郷谷口村では初めて冬鮎を見た。
猛虎のような父が笑いながら鮎を取って来いよと言った、私は雪の積もった岩肌に氷柱が張った薄暗い谷川を見ながら、俺死ぬかもと笑うと父は不死身のお前が死ぬわけは無いだろうと笑った。馬鹿な私はその信頼感がたまらなく嬉しかった、家に帰り川漁の道具を用意して裸で谷川に潜り冬鮎を取った、心臓が少しドキドキしたような感がしたがまだ生きている。
密林の中を流れる谷川の水は十津川よりも冷たかった、暫くすると水中の方が陸より暖かく、俺は不死身で簡単に死なないと確信した大馬鹿者でした。鮎を食べながらお前は丈夫になったねーと母がつぶやき涙ぐんだ、私は早産で死にかけ者だったらしい。
祖母と母は必死で育ててくれた、その苦労のお陰で小学4年位から鬼のように丈夫になり今日まで病気無く健康である。母の涙を見て無茶をした私は反省しました、もう無茶はしませんと心に誓ったが馬鹿はなかなか治りません。やがて山仕事は減少し父にお前は若いから何か職を覚えろと諭され、19歳の3月名古屋に出て5月コック見習いになりました。
名古屋に旅立つ前夜父と酒を飲んだ、酔った父が今までよく頑張ったなーお前はどんな事が有ろうと耐えられるだろう、母は寂しそうに何時でも待っているよと微笑んだ。山奥育ちのターザン(野蛮人)が大鉞を包丁に持ち替え厳しいフランス料理の修行、睦クラブ(モンターニュー)で尊敬できる料理の恩師に巡り合った。
伊佐治社長
それは私を睦クラブに紹介し長年面倒を見て頂いた大恩人、鳴海のガソリンスタンド社長伊佐治様のお陰です。名古屋に出てお世話になり新規オープンのガソリンスタンドを君に任すと言われた、私はガソリンの匂いが苦手ですと断った。伊佐治社長は講道館柔道5段、有名な柔道の鬼、木村政彦と互角に戦った伝説を持つ大柄で物凄い豪傑である、つぶれた耳、鷹のような眼力で睨まれると命知らずの私でも怖かった。
日本刀が置かれた畳の部屋で正座してどんな仕事がしたいかと問われた、思わずの料理人になりたいですと答えた、突然伊佐治社長の目が輝き俺に任せろと言われ現在の私がございます。伊佐治様との約束は月に一度家に来て会得した料理を作って欲しいでした、伊佐治家の人々は皆優しく、私の未熟な料理を美味しいと喜んで食べて頂きました。
伊佐治社長は度々睦クラブ(モンターニュー)を訪れては、頑張れよと励まし私の手に10,000円札を渡して微笑みました。何も出来ない私の給料が7,000円でしたから涙が出るほど嬉しく感動いたしました。現在の私が存在するは伊佐治社長と恩師のお陰と常に忘れず感謝しています、天国の大恩人に改めて感謝の心を込めてお礼の文章を書きました。